自分の身は自分の身でまもる

稽古で大事なポイントはいくつかあります。
それらは普段の生活に結びつけることが容易で、だからこそ大事に意識したいところ。
中でも「気付く事」と、それに対しての「行動をとる事」は最重要なテーマです。
そこから、丁寧な稽古ゆえの自信を掴む事も出来るし、日常生活、特に護身で効果メキメキテキメン!
空手の稽古は常に今やるべき構え(立ち方)があります。
常に「何をすべきか」を意識してそのための行動を起こせば(構えを決めれば)、一つの「今やるべきこと」を完結出来る。
たった一つの地味な事、と思うかも知れませんが、この一つで「一生懸命向き合っている」という後々支えになる、そんな自信を掴む事になるのです。
特に、失敗した時や自信がない時には動揺するもんですが、それをグッと堪えて構えを意識して実行出来ればそれは「落ち着き」に繋がります。
護身に活かすことが出来るって事です。
さて、街を歩くと皆下を向いていますね。
毎日毎日事故や事件が起きているのにも関わらず、です。
欲なのか焦燥感か、とにかく、下ばかり見ていたら危険に気付く事は出来ません。
察知は到底不可能というもの。
歩いていても、私が近づいてもぶつかるギリギリまで気が付きませんからね。
こんなことも気になります。
例えば、ホームに電車が来ます。
ドアが開きます。
こちらはドア付近にいる人がスッと動いてくれることを想定します。
でも、相手はスマホに気を取られていて、動くのが1テンポか2テンポ遅れるのです。
オイオイ!
こんな時に私はストレスを感じます。
車を運転しています。
通学時間帯に重なると道を横一列に歩く小学生の後ろでソロリソロリ。
会話も弾み楽しそうですが、誰も私に気が付きません。
同じ道を急ぐスーツを着たサラリーマンは当然の様に子供達を注意しません。
自転車に乗ると、狭い交差点に差し掛かります。
こっちが優先道路なのですが、そんなもんお構いなしで目の前を横切る人が結構います。
こっちは「ハッ」とするわけですよ、突然の出来事なので。
なのに向こうは何食わぬ顔で無反応なんです。
突然起きていることに何故反応がゼロなのか理解が出来ません。
そんなこんなを繰り返す内にふと思うことがありまして……。
ひょっとして私に気付かないのは、私の存在感が無いのかも??
全然仕方なくはないですが、瞬時の出来事に対して「アッすみません」なんて反応があればまだ可愛いものの、逆に「私の世界を邪魔した」って顔で見られるケースや無表情、無反応って正直気味悪い。
最近も小学生の列に突っ込む車もいれば、無差別殺人だって起きています。
天災もそうです。
いつどこでどうやって身に降り注ぐかわからないのが「危険」です。
でも、それに対して気を張り準備をすれば気付く事も予期出来る可能性だって格段に上がるのです。
昔に比べて社会全体が自己主義になっていて、それは、社会全体の空気に緊張感がなくなることを意味します。
皆の注意、個人個人の意識が地域に緊張感をもたらして安全な社会を形成するもんだと信じています。
どんな高性能な防犯カメラよりも人の目の方が大事だと思いますよ。
これら教育でどうにかならないものかと……。
どうにでもなると思いますし、しなきゃいけないでしょうね。
犯罪も気の緩みも迷惑系も、子供達はそれが良いくない事、格好悪い事って理解しています。
様々な背景はあるでしょうが、大人になるにつれて時間の経過と共に自制心よりも欲が勝ってしまう現状ってあると思います。
でも、このバランスを整えることは、心地よい生活をおくる為の何て言うんでしょうか、子供の頃には備わっていたであろう「生きるセンス」みたいなものを保つ事に繋がる気がします。
やっぱりいい大人が利己的な考えと行動では格好悪いですって。
まあ、格好悪いのは放っておけばよいですが、こっちに被害が被るのは馬鹿げた話です。
だから、子供の純粋な時にどれだけ気付く事と行動を大切に思えるか。
護身にも興味を示し、そのために丁寧な生活を心掛ける事に意欲を持てるか。
自分勝手な振る舞いは無責任で格好悪い。
家の中と外の意識が一緒じゃ困りますって。
自分のエゴはさておいて、個人の意識が社会を守ることにも繋がるのです。
自分を大切にすることが安全社会に貢献するって、これ、格好良くないですか!?
外に出たら五感をフルに発揮して安全に努めたい。
それとも、まだ物に頼りますか?
頭にカメラやセンサー、アンテナでも着ければそれでいいですか?
ダサいですって、そんなの。
自分の身は自分の身で守る。
一番わかりやすいし、確実で、更に胸も張れる。
素敵じゃないですか。
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